追悼 中井久夫

松本卓也

堅牢な体系知ではない、やわらかな経験知。世界を腑分けする断言からなる論考ではなく、詩的イメージを喚起してやまないエッセイ。切り裂くメスのような鋭さではない、寄り添うケアのしなやかさ……。そのような好々爺然としたイメージが、中井久夫にはまとわりついている。もちろん、それは正しい。彼以外の誰も分け入ることができなかった統合失調症の寛解過程を見事に論じた初期論考、「心のうぶ毛」を摩耗させないことを第一義におく肌理細やかな観察にもとづく治療論、ユマニストを思わせる幅広い教養に支えられた精神医学(背景)史、近年の「ケア」論の隆盛にもつながる震災後の心のケア活動、といったさまざまな側面が、そのような中井のイメージを支えている。

しかし、それだけではこの巨星の片側を見たことにしかならないのではないか。「中井久夫を送る」ということは、同時に「楡林達夫の忘却に抗する」ということでなければならないのではないか(言うまでもないが、楡林達夫とは、彼が「中井久夫」として書くようになる以前に使っていたペンネームである)。ヒエラルキー的な医局講座制への苛烈な批判の書である『日本の医者』と、医学というしばしば抑圧の道具ともなりうる武器をいかに良心的に用いるかを説いたパンフレット「抵抗的医師とは何か」の著者である楡林達夫を、そして、本名で書くようになった後にも垣間見える政治的な彼の姿を見落としてしまっては、中井久夫を追悼することにはならないのではないだろうか。

昨今の状況は、その思いをより強くさせる。『戦争と平和 ある観察』の中で、中井は「戦争を知る者が引退するか世を去った時に次の戦争が始まる例が少なくない」と書いている。戦争の記憶が伝承されなくなったとき、私たちはふたたび戦争を始める。そして、始まってようやく、リアルな戦争の悲惨に気づくことになるのだが、それでは手遅れなのである。戦後77年を迎えた今日、過去の忘却を正当化するために「未来志向」という言葉が、先制攻撃の可能性を担保しておくために「安全保障」という言葉が何のためらいもなく用いられるようになって久しい。1934年生まれの中井の言葉はきわめて重く響く。

戦争だけのことではない。中井を翻案するならば、「精神医療改革運動が生じた当時の精神医療の悲惨な状況を知る者が引退するか世を去った時に次の悲惨が始まる例が少なくない」とも言えるのではないか。笠原嘉(1928年生)、昨年この世を去った木村敏(1931年生)、そして中井久夫という「精神病理学第二世代」を代表する三人に共通しているのは、反精神医学について語るときにかならず名前があがるR・D・レインに十分な敬意を払ったことである。というのも、彼らの世代の精神科医たちは、1960年代末に生じた精神医療改革運動(日本においては、この運動の流れのなかで反精神医学が取り入れられていくことになる)によって、あらゆる研究と学会活動が、そして特定少数の患者の主観的体験の把握に注力する精神病理学がいったん不可能になったあとで、いかにして精神医療を、研究と学会活動を、そして精神病理学を立ち上げ直すかという難題に取り組まざるを得なかったからである。立ち上げ直すといっても、それは精神医療改革運動や反精神医学の「否」に対する単なる否定(反・反精神医学)ではない。むしろ、その運動がもつ「否」を真剣に受け止めた上で、それでもどうにかして精神医療に対してイエスと言う、というきわめて困難な課題を成し遂げたことこそが、中井を含む精神病理学第二世代の最も重要な功績であろう。

これは、中井にケアと政治の二面性があるということではない。政治的な楡林達夫が、ケアの中井久夫に転回したわけでもない。実際、寛解過程論の始まりを告げる『分裂病の精神病理〈3〉』所収論文を振り返って、「あの時は精神科紛争の最中だった。これが最初で最後の論文になるかもしれないと思い、証明抜きで一行に圧縮してでも書くべきことは書き残しておこうと思った。今の人には想像さえ難しいであろう」と中井は述懐している。一般に知られる「中井久夫らしさ」の裏には、つねに政治があり、楡林達夫がいるのだ。

極めつけは、やはり「世に棲む患者」であろう。統合失調症の患者にとって、回復とは多数派の生き方にあわせることではなく、少数者として世の中に自分らしい棲まい方を創り出すことであると説くこの論文は、発表以来、日本の心ある臨床家の拠り所となりつづけている。もっとも、「マイノリティ」をめぐる言説が聞こえてこない日のない現代において、「世に棲む患者」の議論は至極当たり前に聞こえるかもしれない。だが、この論文が発表されたのは実に1980年のことである。そして、それはやはりレインへの応答であった。中井は、レインの「統合失調症旅路説」、すなわち、患者に自由に統合失調症的な世界を展開させることを許せば、彼らは本来の自己を取り戻して自然に世界へと帰還してくる、という考えを、さらにはそれを取り入れたドゥルーズとガタリの「逃走線」という考えを、当時の日本の精神医療において受け入れやすいように翻案したのである。そして、実際にその考えは現代の日本の精神医療の一部の基調をなしている。「レインの毒は薄められた形で今日の精神医学にずいぶん取りこまれている」という中井のレイン評は、そのことを指している。

おそらく、このような中井の姿は、すでに忘却されつつある。そして、中井の死によって、完全に忘却されてしまうかもしれない。「世に棲む患者」の議論は、「その人らしさ」を最大限に高めることを言祝ぐ自己啓発の一種(!)として、新たな抑圧の道具として使われるようになるのかもしれない。もっとも、中井自身が自らの政治的な「毒」を薄めようとしたということもあろう。その意味で、中井久夫をどのように送るのかは、私たちがどのように精神医療・精神医学の歴史と向き合うかについての試金石となるだろう。この不世出の精神科医の仕事に今一度真剣に向き合うことが求められている。

*初出:図書新聞 (3557) 1-1 2022年8月